特別鼎談 松聲館館主 甲野善紀×えにし治療院院長 中村考宏×半身動作研究会主宰 中島章夫
中島章夫(以下、中島)今日は、武術家の甲野善紀先生、えにし治療院の中村考宏先生をお招きし股関節は要というテーマでお話しいただきます。私は半身動作研究会主宰の中島章夫と申します。甲野先生は私の武術の師であります。また、中村先生が治療士として研究している「構造動作トレーニング」も勉強させていただいております。そうしたわけで、今回、両先生の橋渡し役をさせていただくことになりました。中村先生のトレーニングでは股関節が重要なポイントになっているわけですが、一方、甲野先生が最近非常に興味を持っているのが、まさに股関節なんですね。甲野先生、まず、股関節に興味を持ったきっかけからお話しいただけますか。
甲野善紀(以下、甲野)あるイベントで『屏風座り』と私が呼んでいる、踵を床につけたまま、体を前傾させず上半身を真っ直ぐに落とす動きが、柔道に直接使えそうだという提案を、名古屋の米田柔整専門学校柔道部の河原龍秀監督からいただいたのです(「屏風座り」を実践する)。
中村考宏(以下、中村)普通の人は後ろに倒れそうですね。
甲野 ええ。しかし、この姿勢には意外な強さがあるんです。普通こんな姿勢で前から胸を押されたら必ず尻もちをつきます。しかし屏風座りをすると、倒れずに、逆に押してきた相手を倒すことさえできるのです。そして、そこから発展した技法が「浮木の腿」という技です。足を開き、例えば左足を前方に出して、腰を落とします。このとき両足には体重を乗せます。左に六、右に四くらいの比率で体重をかけています。そして体重の比率を変えないまま、左の股関節から左大腿を持ち上げるんです。これは左足の力を抜いて、一瞬右足に体重を預ければ誰でも出来ますが、「浮木の腿」では、左足に体重をかけたまま、瞬間的上げるのです。これはスポーツ工学的には不可能な動きですが、踵の付き方など、何とか体の使い方を工夫して、多少なりともこの動きが出来ると、驚くようなことが可能になります。
中島 それを試してみると、柔道、剣道、合気道など、色々な局面で応用できることが分かってきたわけですね。
甲野 柔道の組手争いでも使えますし、例えば、合気道などで片腕をしっかり掴まられていても、その相手を振り切ることが出来ます。ちょっと私の左腕をしっかりと掴んでいていただけますか。
中村 こうなると、甲野先生が普通に動けるはずがないですね。左腕は極まっていますし、右手にも力が入らない。
甲野 ところが、「浮木の腿」をかけて、こうやると・・・・・。
中村 ああ。瞬間的にものすごい力が出ていますね。
甲野 また、例えば、剣道で上から表交差から逆の裏交差に切り込むことが可能になります。これを、剣道の人にみせると、大変驚かれます。通常の剣道では、逆の裏交差に剣を持っていくには、上半身を多少でも捻った動きが必要で、そうすると気配が出るんですね。しかし、「浮木の腿」では、上半身はただまっすぐ切り下ろしています。このとき下半身だけが、「浮木の腿」をかけたため、股関節を瞬間的に僅かに動かしている。それで、股関節にも着目するようになったのです。
中村 拝見していると、甲野先生の場合、足首の可動域が大変広いんですね。こんな角度まで普通の人は動かない。そこがまず違いますね。先生の足の裏に興味があるのですが、見せてもらってもよろしいですか。
甲野 ええ、私は足の指のつけ根が約九〇度曲がりますから、こうやって握り拳を作ることもできます。
中村 これは凄い(笑)手のように握れるんですね。足の指がこれだけ動くから、地面をしっかりとらえられる。
中島 地面を足の指でとらえられるからこそ、瞬間的に早く移動することも可能になるんでしょうね。
中村 私の立場からいえば、これは、一般の人にとっても大変参考になる点です。股関節がちゃんと使えていない人というのは、足首もあまり動かないし、足の指が使えないんです。それどころか足の指が退化して弱っている人が非常に多い。しかも股関節がうまく使えていないと、体に余計な負荷がかかりますから、股関節痛や腰痛など、様々な症状が出てきます。そうした人たちに、私は股関節のトレーニングを勧めますが、その際、足の指のトレーニングも欠かせないんです。
甲野 ついでだから、お腹も触ってもらいましょうか(笑)。
中村 凄くやわらかいですね。先生、腹圧をかけて下さい。しっかりと腹圧がかかっていますね。腹圧も実はとても重要なんです。腹圧がしっかりあると、股関節をよく動かすことができるんですよ。
甲野 昔の武術家の絵などを見ると、上半身はすらっとしていても、下腹が出ています。そうでないのは「犬腹」といって蔑まれたそうなんですね。ハウンド系の犬種のようなすっきりと腹のすぼまった、いわゆる逆三角形のスタイルは昔の武術家の常識からすればダメ腹です。男の風上にも置けないやつだと。
中島 お腹が柔らかく、腹圧がしっかりかけられる。それが手足を自在に使う重要なポイントなんでしょうね。体を鍛えている人たちを見ると腹筋を割ることを目指していたりします。甲野先生とは好対照です。
甲野 私の武術は、近代トレーニングからして大きな違いがあります。私が目指しているのは昔の職人たちが仕事で鍛え上げてきた強さです。なぜなら仕事ですから、できるだけ疲れたくない。そのために体を有効に使おうとする。そうしたき工夫から生まれた体の強さ、昔の力士なら初代・若乃花とか大鵬なんかに感じられた強さです。ああいう人たちは石炭を担いで狭い足場を通ったり、山仕事をしたりして、必然性のある仕事で身体をつくっていますよね。一方、今の筋トレは、早く身体を疲れさせようとするトレーニングなんですよ。疲労度が増せば、より早く筋力がつくと考える。それに、部分部分の筋肉をきたえようとしますしね。しかし、それが本当に身体を鍛えることになっているのかは、私には大きな疑問です。
中村 股関節など骨格の大切なパーツを十分に使わずに、筋力だけで体のバランスをとっている人がいますが、こうした人はケガをしやすい傾向があります。筋トレ事態が怪我のもとになっているケースも多い。
中島 部分を鍛えると、どうしても体に偏りが出ますからね。
甲野 本来、体全体を機能させることが大切であるはずなんです。「浮木の腿」のように、その方が驚くほど大きな力が出せる。瞬間的な速さも増す。
中村 一八〇度以上、足を開くことができるバレリーナが、股関節が回らないと困って相談に来ることがあります。単に筋力をつけたり、ストレッチをして柔軟性を増したりすれば、股関節が動くようになるというものではないんですね。甲野先生のように股関節を使うには、お腹が柔らかくて、腹圧があって、足首が柔らかく、足の指がしっかり地面をとらえられる。こうしたさまざまの要素がかみ合って、股関節が動き、全体として凄い技が出来てくるんでしょうね。
甲野 先ほどもいいましたが、本当に身体を変えるには、必然性が必要だと思います。例えば、ふてくされている高校生も、道端で足をすべらせかけると、瞬間、いやでも真剣にバランスを取って倒れまいとする。倒れたくないというのは、直立二足歩行している人間の本能的反応ですから、倒れかけると必死になる。つまりそうした必然性があると、どうしても真剣にならざるをえないのです。数年前、熊本県の菊池渓谷を訪れたことがありました。倒木を超えたり、ゴツゴツした岩場を歩いたりしているうちに、足裏が自然とそういう刺激を求めていることを感じました。それで思ったのです。昔の人は今では考えられないほど長い距離を走り続けられたのは、足元が不安定だったからではないか、と。
中島 今はどこもかしこも舗装され、平坦になっていますからバリアフリーで足が引っかかることもない
甲野 暗がりや足元がおぼつかないところを歩く時は、転ばないように無意識のうちに普段使わないような機能も使うんだと思います。安定した平面だけで暮らしていると、そうした多くの機能が著しく低下してしまう。それで、こういう「みちのく山道」という鍛錬用具をつくったのです。
中島 でこぼこの山道を登るときに同様に、こうしたものに乗るとバランス感覚が鍛えられ、足裏への刺激にもなりますね。
中村 現代人には股関節を使えなくなっている人がたくさんいますが、それも、私たちが、どこにいっても平坦である生活空間の中で暮らしている影響が大きいのでしょうね。いずれにしても、甲野先生の新しい技の数々には、私たちにとっても大切な健康のヒントがあるように思います。股関節の使い方一つにしても、教えられることが多いですね。
甲野 あらためて考えると、私は以前から、多くの技の中で、股関節をうまく使おうとしてきたのだと思います。ただ、股関節が気になりだしたのは、ほんとうにここ二,三か月前からのことです。ですから、わからないことがまだまだ大変多いのです。「屏風座り」にしても、何であんな力が出るのか自分でも不思議です。
中村 甲野先生のように座るだけなら、体が柔軟であれば出来るかもしれませんが、決してあんな力は出せませんからね。
甲野 研究していけば、さらに速さや強さ、技自体も高まっていく可能性があります。
中村 そうすると、股関節についても新しい発見があるかもしれませんね。
中島 古武術の研究から、新しい介護術が生まれたように、股関節を使う技から新しい健康法がうまれるかもしれませんね。
甲野先生、中村先生、今日はどうもありがとうございました。
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